「もちもちの唄-手を空けておく-」
夜更けの台所だった。灯りは手元の一つだけ点けて、あとは消していた。
右手に湯呑み、左手に画面。指はもう何も考えずに動いていて、知らない誰かの今日を送っていた。ずいぶん長くそうしていたらしく、湯呑みの湯気はとっくに消えていた。冷めた茶を飲んで、はじめて自分が何も味わっていなかったことに気づいた。
そのとき、なぜだかふと、名前を数えはじめた。顔と名前が一致して、いま何をしているかだいたい言える人。指を折って数えていって、途中でやめた。両手で足りてしまいそうだったからだ。
少ないと知って、息がしやすくなった
数えたあと、しばらく動けなかった。
わたしはこれでも、人とつながる仕事をしているつもりでいた。読んでくれる人がいて、返事をくれる人がいて、その一つひとつをありがたいと思っている。それなのに、本当に覚えているのは両手に収まる数しかない。少ないというより、足りていない、と思った。
でも次に来たのは、落ち込みではなかった。息がしやすくなった、という感覚のほうだった。
しばらく考えて、理由がわかった。わたしはずっと、全部を持てるはずだと思っていたのだ。届いた言葉には全部返せるはずだし、気にかけたい人は全員気にかけられるはずだし、それができていないのは自分の努力が足りないからだ、と。数えたことで、その前提が崩れた。持てる数には最初から上限があった。努力の問題ではなく、単に、両手の大きさの問題だった。
上限があると認めるのは、負けを認めることに似ている。実際わたしも、認めるまでは負けだと思っていた。けれど認めてしまうと、そこにあったのは敗北感ではなく、単純な余白だった。持ちきれないと言えた瞬間に、抱えていたものが一つ、手から落ちた。落ちたぶんだけ、手が空いた。
わたしには深く潜る時期がある。何かを作りはじめると、外の世界がすっと遠くなって、連絡が返せなくなる。そのことを、あらかじめ周りに伝えるようにしている。伝えているのに、毎回うしろめたい。返せていない言葉が、いつも三つか四つ、机の隅に置いたままになっている。
あの夜わかったのは、そのうしろめたさは、返していないことから来ているのではない、ということだった。全部返せるはずだ、という思い込みのほうから来ていた。返せる数に上限があると知っていれば、返せていない言葉は失敗ではなく、ただの順番待ちになる。
手を空けておく、というのは、そういうことだと思う。空けておかないと、次に来たものを受け取れない。誰が来るのかも、何が来るのかも、まだわからないままだけれど。
歌にした
こう書いた。
[Intro]
[Spoken Word]
名前を、いくつ覚えているか。
数えたことが、あるか。
……わたしは、数えてしまった。
指を折って、途中でやめた。
思っていたより、ずっと少ない。
少ないと知って、
なぜか、息がしやすくなった。
その話を、する。
[Verse 1]
夜更けの台所 灯りは一つだけ
片手に湯呑み 片手に光る画面
知らない誰かの 今日を送ってゆく
湯気はとっくに 消えているのにな
[Chorus]
手を空けておく 手を空けておく
抱えたままじゃ 受け取れないな
なにが来るのか まだ知らないまま
[Verse 2]
同じ台所で 画面を伏せてみた
片手が空いて 湯呑みがあたたかい
返さなきゃならない 言葉が三つほど
あしたでいいと 誰かが言うな
[Chorus]
手を空けておく 手を空けておく
抱えたままじゃ 受け取れないな
なにが来るのか まだ知らないまま
[Instrumental Break]
[Spoken Word]
持ちきれないと 言えたのは、
たぶん、はじめてだった。
[Bridge]
数えたら少ない それでよかったな
少ないほうが 顔を思い出せる
[Chorus]
手を空けておく 手を空けておく
抱えたままじゃ 受け取れないな
なにが来るのか まだ知らないまま
[Outro]
手を空けておく 手を空けておくこの曲で捨てたもの
はじめは「手を離す」で書いていた。離す、のほうが動作として強い。けれど何度か口に出してみて、離すには失う響きがあることに気づいた。あの夜わたしが感じたのは失うことではなく、空くことだったので、「空けておく」に替えた。動作としては弱くなったが、正確になった。
サビの最後を、一度は「なにが来ても 受け取れるように」と書いていた。これは削った。準備が整った人の言い方になっていて、あの夜のわたしとは違う。何が来るのかわからないまま手だけ空けている、というほうが本当だった。
前口上の最後に、「だから、あなたも数えてみるといい」と入れていた行も消した。読んだ人にやらせることではない。数えるかどうかは、その人が決める。
おわりに
返せていない言葉は、いまも三つある。
明日返すかもしれないし、返さないかもしれない。返さないままでも、あの人たちのことは覚えている。覚えている数が少ないというのは、たぶん、そういうことだ。
音源はこちら。



