もちもちの唄:「明日からもゆっくりいこう」
七月の朝、七時すぎ。駅までの坂を半分ほど上がったところで、鞄の持ち手が手のひらに食い込んでいるのに気づいた。左手には紙袋も持っていた。中身は返しに行くはずの本で、三週間そのまま持ち歩いていた。
横断歩道の信号が赤に変わった。いつもならここで小走りになる。その日はならなかった。立ち止まって、足元を見た。
影が、思っていたよりずっと後ろにあった。
二段ずつ上がる癖
紙袋の本は、六月の頭に借りたものだった。返しに行く日を三回決めて、三回とも別の用事を先にやった。急いでいたわけではない。急いでいる形をしていた、というほうが近い。
朝、駅の階段を二段ずつ上がる。改札の手前でもう定期を出している。エスカレーターには立たない。どれも一分も稼いでいないのに、やめるとそのぶん何かを損した気がして、やめられなかった。
四月に担当が変わって、覚えることが増えた。増えたぶんを、速さで埋めようとした。昼を十分で食べて、歩きながらメールを返して、寝る前に翌日の順番を紙に書いた。書いた順番のとおりに進んだ日は、三か月で一日もなかった。
六月の終わりに寝坊した。走っても間に合わないと分かったので、走らなかった。階段を一段ずつ上がって、ホームに着いて、次を待った。四分だった。四分待って、いつもと同じ会議に、いつもと同じ時間に入った。
二段ずつ上がって稼いでいたものの正体が、そこで分かった。稼いでいたのは時間ではなく、急いでいるという感触だった。それがないと、自分が何もしていないように思えるので、足で作っていた。
やめるのは決意ではなく、手続きだった。歩幅を狭める。信号で待つ。持ち手を持ちかえる。それだけで、坂の途中に景色があることに気づく。
歌にするとき、最初は決意の言葉を探した。見つからなかった。決意は明日の朝にはもう薄いので、歌にしても持たない。かわりに歩幅の話にした。歩幅は毎朝あるし、毎朝測りなおせる。
明日からもゆっくりいこう
こう書いた。
[Intro]
[Spoken Word]
急いで、どこへ着いた。
……着いたところで、
何を、していた。
朝の駅の、階段を、
二段ずつ上がる癖が、
まだ、抜けない。
きのう、一段ずつで上がった。
同じ電車に、乗れた。
——歩幅を、半分にする。
[Verse 1]
七時の坂道 鞄が二つ
片方を右手に 持ちかえるだけで
信号が変わる 走らずに待つ
影を 置いてきたままだな
[Chorus]
半分の歩幅で ゆく
半分の歩幅で ゆく
影が 追いついてくるまで
[Verse 2]
七時の坂道 鞄はひとつ
空いた手のひらに 風があたっている
信号が変わる それでも待った
影が 斜めに伸びてくるな
[Chorus]
半分の歩幅で ゆく
半分の歩幅で ゆく
影が 追いついてくるまで
[Instrumental Break]
[Bridge]
軽いというのは こういう音か
足の裏だけが 鳴っている
[Chorus]
半分の歩幅で ゆく
半分の歩幅で ゆく
影が 追いついてくるまで
[Outro]
半分の歩幅で ゆく
半分の歩幅で ゆくこの曲で捨てたもの
最初のサビは「急がなくても 着くところ」だった。声に出して三回歌ってみて、これは説明で、動作ではないと分かったので捨てた。着く着かないの話にすると、結局どこかへ着くための歌になってしまう。
Bridge には三行目があった。「置いてきたものの名前は もう出てこない」。忘れたことを言葉にすると、忘れていないことになる。削った。二行で止めたぶん、そのあとのサビが早く来る。
前口上には「ひとつ、抜く。」という行を置いていた。階段の段を抜く意味に読めて、言いたいことの逆になっていた。きのう一段ずつ上がった話に替えた。
Verse 2 の四行目は、はじめ「時間は誰にも同じだけあるな」と書いていた。正しいことを言っているが、これは教訓なので消した。かわりに影を伸ばした。伸びた影のほうが、同じことを何も言わずに言っている。
坂の途中で
今朝も同じ坂を上がった。鞄は一つになった。本は先週返した。それで速く歩かなくなったかというと、油断すると足がまた前に出る。半分の歩幅は、決めたら終わりというものではないらしい。坂の途中で、何度も測りなおしている。
影は、まだ少し後ろにいる。



